古い写真を見ていて気づいたので、まぁスルーしてもいいのですがせっかく写真があるから書いとこうかな←程度のお話です😑
(👇2017年のものです)
2017年、囀や寄席以外の写真はこれだけでした。そして私はこの会には行けてはいないのですがおそらく志ら門さんがSNSにアップされていたのを保存したのだと思います。
なぜ?🤔
と自分でも思いましたが、よーく見てみると納得できた気がしました💡
まずこのチラシ(だと思うのですが)の右下の赤枠「大入」のところを読んでみると立川らく人さんは鳥取県米子市出身と書いてあります。
はい、次。
一方、志ら門さんの出身地である愛媛県大洲市には大洲城というお城があるのですが、このお城は加藤家が治めたお城でその初代となる加藤貞泰公は米子から移ってこられたお殿さまだそうです。
それ以前縄張り形成から築城までには藤堂高虎、脇坂安治など関わっていきましたが、その後加藤家は明治にお城がなくなるまで唯一代々大洲を治め続けたので大洲城の代表的なお殿様というと「加藤家」になるのです。
また大洲といえば中江藤樹(陽明学者)が二宮金次郎より有名人であり、実際学校の校庭にあるのは金次郎像ではなく藤樹先生像なのですが、米子から加藤のお殿様が来られるときにお供したのが藤樹先生の祖父であり祖父に連れられ藤樹先生も大洲に来られ、その後大洲で学問や人の道を教えた先生として市民から推され続ける人として語り継がれているのです。
志ら門さんのご実家はまさにこの大洲城下のすぐ近くにありますが、その兄弟子さまに米子のご出身の方がおられるとは時代を超えて運命的なつながりを感じました。
(おおげさ)
お殿様と一緒に米子からお供の方々が大洲へ入られたために大洲と米子の言葉やイントネーションは似ているのだそうです。
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